プロ野球カード記録 その22
今回は、近鉄バファローズ、大阪近鉄バファローズ、オリックス・バファローズそれぞれの時代にまつわる選手のカードを記録したい。
背番号00
森谷 昭人
2004年大阪ドーム入場時に配布されたカード。
裏面の(近鉄グループの経営を圧迫した)志摩スペイン村というワードや、今はなきショップバフィ、豚まんが当たるという当時の情報が懐かしい。
森谷氏は1998年に近鉄に入団。このカードが配布された2004年シーズンの後は分配ドラフトにより楽天イーグルスでプレーし、2008年に引退。現在は京都で焼鳥屋を経営されていることはファンの間で広く知られ、訪問される方も多いようだ。
2004年頃は野球観戦から離れつつあった。だから森谷選手への記憶や思い入れは、残念ながらあまりない。
リーグ再編に絡むあれこれが大きな原因であったことは、何度も当ブログで綴ってきたが、今思い返すともう一つ大きな理由があった。
一番応援していた選手であるタフィ・ローズが近鉄を離れ、巨人に移籍したからだ。一度好きになった選手は、移籍しても変わらず注目するスタンスだ。しかし移籍先が巨人で、また球団がタフィのアイコンでもあったバイク通勤を禁止するというおもしろくない要素が重なり、この年の私のタフィ熱は「空白期間」と呼ぶにふさわしいものであった。
いつもの癖でカードの選手から話が逸れてしまった。森谷氏という俊足・強肩の選手が近鉄で活躍していたことを振り返るきっかけになったのは、2019年シーズンから同選手の応援歌を引き継ぎ、同じ背番号である00を背負うオリックス・バファローズの西浦颯大選手である。
「風切り裂くユニフォーム MAX全開フル加速 豪脚速攻ぶっちぎり光速DASHの疾男」
とおしで歌い続けると、かなり肺活量が鍛えられるこの歌と番号を引き継いだ若手選手。来季以降の活躍に期待を寄せつつ、そしていつか評判の焼鳥屋に訪問できる日を願って、次のカードに進みたい。
背番号15
山崎 慎太郎
1997年大阪ドームで来場者に配布された、くじつきカード。
1985年に近鉄に入団した山崎投手、この頃はベテランという立ち位置だった。そしてこの年のオフにFAでダイエーホークスに移籍、その後も他チームに移り成績がふるわぬまま2002年に現役引退されている。
長くプレーされた選手の経歴を、かくも短い文章で書くのはあまりにも軽薄だし、失礼であるのは百も千も承知の上で続けよう。
山崎投手は、主に80年代後半~90年代初頭に力投を見せたイメージが強い。それでも2000年を過ぎてもトライアウトを受けて広島、オリックス・ブルーウェーブに入団した経歴をお持ちで、現役で投げ続けることにこだわり、食らいつく姿勢は、猛牛戦士そのものといった印象を受け、感服するのみである。
私が好きな、山崎投手にまつわる「ザ・近鉄」なエピソードがある。
ペナントレース中の試合で登板する段になっても、当時球団内で流行っていたゲームを手放さず「登板してもいいけど、打たれるよ?」と言い放ちながらもピシャリとイニングを抑えたという逸話だ。こういう話を聞くにつけ、やはり私は昭和の終わりから平成初期にかけて、藤井寺球場や日生球場で繰り広げられた猛牛伝説が大好きだ。
背番号42
2009年京セラドームでファンクラブBs Club会員に向けて配布されたカード。
先にカブレラ氏のキャリア終焉の話をすると、2014年に禁止薬物使用疑惑でメキシカンリーグを追放されている。
生き馬の目を抜くようなアスリートの世界、いちファンが「おくすりはダメ!」と言ったところで、そんなの綺麗ごとだと思われる部分もあるかもしれない。しかしバリバリ活躍した選手に禁止薬物を使用した疑惑が浮上するのは、素晴らしいキャリア全体がしらけてしまうというものである。
思い出に残るあの試合のホームランも、あのプレーも、おくすりの効果だったのかなあと思ってしまうし、疑惑のワクを超えるものでないとしても、ファンをがっかりさせる行為に変わりはない。
もっとも、おくすりによる解雇で新しい選手が加入し、前選手をしのぐ活躍をみせてくれるパターンもあるので、現在のバファローズで言うと、ジョーイ・メネセスと入れ替わりで入団したスティーブン・モヤ選手に引き続き期待をしたいと思う次第だ。
モヤ選手は来季もバファローズに在籍するのだろうか。
いろんな選手の去就の報せが活発になりはじめて、野球ファンが憂鬱になりがちな9月~10月。少しでも楽しく残り少ない試合を観戦できればと思う。
記録はつづく