タフィ・ローズを捜しています

最愛の野球選手であるタフィを超える選手を捜しながら、80年代、90年代のプロ野球の記憶などを記録していきます。

「追悼野村克也 蔵出しドキュメント&江本孟紀が語る南海ホークス秘話」がおもしろかった

ライブ・イベントスペースである大阪Loft PlusOne Westにて、無観客、オンライン配信で開催された、野村克也氏追悼イベントを視聴した。 

twitcasting.tv

このイベントはリアルタイムでなくとも視聴が可能だ。購入・視聴期間は2020年7月6日となる。期間限定であるが、ノムさん南海ホークス、昭和関西パ・リーグに興味のある方には、全力で購入をお勧めしたい。 

コンテンツは上記サイトの通りであるが、期間限定のため、後々リンク切れの恐れがあるので、引用を掲載させていただく。

―2020年2月11日、野球人 野村克也が逝った―
誰もが認める「名将」。世間のイメージは、後年の「ノムさん」と呼ばれ老若男女に親しまれたあの姿。
しかし遡ること50年前、彼が名選手として名を馳せた現役時代を知る者はそう多くない…。
野村は現役時代、大阪球場を拠点とした「南海ホークス」で24年間にわたり活躍。球場があった跡地には記念ギャラリーが作られ、当時と同じ場所には野村が座り続けたホームベースが刻まれている。
しかし、野村の名前はどこにも無い…。戦後の球界を大いに沸かせた名門チーム。親分・鶴岡監督、杉浦、そして野村・・・当時の選手たちは何を思いプレーしていたのか。そしてベンチ裏では何が起こっていたのか。そこには驚くべき確執と、男たちの”執念”があった・・・。

主題は、

大阪球場跡地にある南海ホークスメモリアルギャラリーに野村氏の記録を残すべきではないのか

・恨んでもいたけれど、野村氏は心から南海ホークスを愛していたはず

の2点であると読みとれた。

 

ドキュメンタリー中に登場する南海ファンの多くが、野村氏に関する情報が一切ないのはおかしいと語る。

私は南海ファンではないけれど、複数球団の監督としての雄姿を目の当たりにしてきた世代として、おおむね同意である。

野村氏ご自身は、「南海ホークスとは絶縁した(だからギャラリーに自分のことは掲載しないでくれ)」と頑なに言い続けたようだが、江本氏の証言によると、ここ数年はご本人の考えも軟化されていたように見えたらしい。

ご本人が逝去され、掲載するかどうかは息子の克則氏の判断に委ねられるのだろうか、ということもトークで触れられていたが、今後どうなるのか、引き続き注目したい。 

 

ギャラリーの話題以外にも、トークとドキュメンタリーはみどころ満載だった。

大沢親分こと大沢啓二氏が独特の口調で当時を語る姿や、江夏豊氏が「抑えのエース」としての存在を確立させたくだりなど、各氏の現役時代、南海時代を知らない自分にとって新鮮だった。

特に南海ホークスの祖とされる鶴岡一人監督の政治的側面や、理由はわからないけれど野村氏を嫌っていたエピソードでは、球界の「暗」の部分を目の当たりにさせられた感じがした。我々プロ野球ファンは、フェンスの外側から見える部分だけを楽しんで、元気に応援しているのが一番幸せなのかもしれない、と思ったりもした。

 

また「大阪・なんばに球場があったことを知らない世代が増えるのは、寂しいものがある」とトークでも触れられていたのが印象的だった。

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私は南海ファンでも現ホークスファンではないけれど、実家は南海沿線にあり、父親は鶴岡・蔭山・野村監督時代からのホークスファンだ。父に連れられて行った大阪球場の記憶が大きく影響し、昭和の関西パ・リーグへの興味が枯れることはない。

shibata-pro.hatenablog.com

大阪球場藤井寺球場を訪れた、ギリギリの世代である私。

いまはなき関西パ・リーグ球団や、球場のことを語り継がなければならない!という大それた使命感を持つには、知識や経験も少なく、おこがましい。

しかし、時代は違えど、自分と同じ野球ファンが、一投、一打、一走に一喜一憂・熱狂した場所の記憶と、時折そこに訪れ、そこで活躍した選手の思い出を、細く長く記録していきたいと改めて認識できた、すばらしいイベント企画だった。

 

大阪Loft PlusOne West様、トーク内容もドキュメンタリー映像も、期間限定ではなく、有料でいつでも観られる設定にしていただけるととてもうれしいです。

 

 

記録はつづく