タフィ・ローズを捜しています

最愛の野球選手であるタフィを超える選手を捜しながら、80年代、90年代のプロ野球の記憶などを記録していきます。

プロ野球カード記録 その36

2021年最初のエントリは、プロ野球カードの記録から始めたい。

 

近鉄バファロー

背番号11

野茂 英雄

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1992年 近鉄球団のカード。

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カードは1枚単品ではなく、12選手分が1箱に入った状態で手元にある。

球団が販売した物なのか、もしくはファンクラブの特典なのか、お恥ずかしながら定かではないのだが、藤井寺球場の画像といい、収録選手のラインナップといい、懐かしい一品だ。

1992年頃、藤井寺球場は、自分の意思というよりも、野球を生で観たくなった親に休日に連れられて行く場所だった。(自主的に近鉄ファンとして"覚醒"したのは1996年のローズ入団後)

土日でも、当日券でどこでも座って観戦できるゆるい雰囲気の球場でも、野茂投手の登板時は、雰囲気がひと味、ふた味違うなあと幼いながらに感じたことを記憶している。

自分自身が、野球選手ひとりひとりに対してまだ強い興味を寄せる前の頃だったけれど、珍しい苗字だったし、近鉄の、あの3色のユニフォームに身を包んだ、他の投手とまったく違うフォームで投げる野茂投手のことは、すぐに覚えることができた。

気づけば、藤井寺で観ていたその投手の「渡米」の報道が連日スポーツニュースをにぎわせるようになった。

渡米前~直後は、「無謀な挑戦」という前評判が目立っていたし、藤井寺のスタンドで酒に酔った大人が「ノモのアホっ」と、へべれけに毒づく場面に実際立ち会ったりもした。

 

結果は多くの野球ファンが知る通り。

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「新人王 獲るネード」

上記は1995年11月10日(金)の新聞の切り抜きで、当時中学生だった私の野球記事スクラップブックに残されていたものだ。

当初は連日「無謀」と報道していた各メディアも、見事にてのひらを返してメジャーリーガー・ヒデオ ノモを称賛しまくり始めたと記憶している。

メジャーでの大活躍後も、藤井寺近鉄ファンは変わらず「ノモのアホっ」と毒づいていたけれど、これは「なんで近鉄におり続けへんかったんや」という意味合いが強かったのではないだろうか。

なんにせよ、元近鉄で、ロサンジェルス・ロジャースの野茂投手は、90年代半ばのプロ野球を鮮やかに彩った野球人のひとりであることに違いない。

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活躍と同時に、NOMO Tシャツもブームになったと記憶している。

中学生だった私にとってはちょっと高価で手が出せなかったが、大人になった今、古着屋で見かけるとついつい購入してしまう。

 

メジャーリーグのことをあまり知る機会がなかった野球ファンにとって、野茂投手の渡米が、MLBに興味を持つきっかけになったケースも多々あったのではないだろうか。

実際、スポーツニュース以外でも、野茂投手特番が組まれる機会が増えたし、チームメートや関係者がクローズアップされる番組をいくつか観た記憶がある。

当時のドジャースの「名女房役」マイク・ピアッツァ捕手や、野茂投手とよくコーヒーを飲みに行くと報道されたラウル・モンデシー選手など、記憶に残るチームメートは何名かいるが、一番印象深いドジャース関係者はこの方だろう。

 

ロサンジェルス・ロジャース

背番号 2

トミー・ラソーダ

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2001年、大阪近鉄バファローズの球団アドバイザーを務められた時カードであるが、野茂投手在籍時の頃の記憶を主に記録しておく。

ラソーダ氏、いや、私個人的にはラソーダ監督の呼び名が最もしっくりくる。「パテックス」という湿布のCMなどにも出演されていたし、日本でもっとも知名度の高いMLB監督と言っていいかもしれない。

ドジャースラソーダ監督は野茂投手と切り離して考えられない存在だ。

野茂投手を多く登板させ、また前述した特集番組では「自分の息子」として面倒をみて、それでも日本人だからといって特別扱いはしない、というスタンスだったラソーダ監督。メジャーリーガーNOMOが活躍できたのは、ラソーダ監督の存在が大きかったのではないだろうか。

そんなラソーダ監督が、2021年1月7日に逝去された。

 

ドジャースSNS公式アカウントでも大々的に追悼の投稿がされ、本拠地のスタジアムでは、ラソーダ監督の背番号である「2」が大きく掲示された様子が報道された。

野球場だけではない。

 

同じくロサンジェルスを本拠地とするプロバスケットチーム・レイカーズの試合でも黙祷が捧げられ、

ロサンジェルスのランドマークが、チームカラーである青、いわゆる「ドジャーブルー」でライトアップされて、街全体がラソーダ監督を悼んだ。

野茂特集番組でも度々、その人柄が取り上げられたラソーダ監督。それらの番組中、彼が「私には、ドジャーブルーの血が流れている」と言った姿にシビれたものだ。自らの去り際に、そんなブルーのライトで送り出される、偉大な野球人。

野茂投手を活躍に導いた感謝を込めて。そして2000年代の近鉄に、アドバイザーとして名選手を移籍させてくれたことにも感謝しつつ、合掌。

 

 

記録はつづく