南海ホークスがいた1980年代 なんばの思い出
2019年シーズン終了とあいなって約一週間。
今年「も」福岡ソフトバンクホークスが日本一。おめでとうございます。
リーグ優勝こそ逃したものの、クライマックス・シリーズ以降、当然のように勝ち進んでいったホークス。ドラマチックな展開や熱い接戦が繰り広げられることもなく、一種の「退屈さと非情さ」を感じた秋の野球であった。
今年末も私の大阪の実家には、連覇を祝して、ソフトバンクホークスのカレンダーが飾られることになるのだろう。父が南海時代からのホークスファンだからだ。
カレンダー以外には、40年近く南海ホークスのフラッグが飾られている。
私は阪神、近鉄ファン時代を経て今はオリックスを主に応援しているが、人生で初めて訪れた球場は、甲子園でも、藤井寺でもなく、そんなホークスファンの父が連れて行ってくれた、今はなき大阪球場だった。
南海線沿線に住む我が家にとって、電車一本で行ける街・なんばと、その駅前にあった球場は手軽なレジャースポットだった。東京で大雑把に例えると、JR新宿駅前、小田急~京王デパートのあたり一帯に野球場があったと言えば、その至便さと異様さが想像できないだろうか。
私が3~4歳の頃、「そこで野球の試合が行われている」という認識はまだまだなかった。兄が楽しそうにスタンドの急斜面を駆けるいっぽう、私はおびえながら母の膝のうえでジュースを飲んでいたという記憶がある。また大阪球場の照明は、今のドーム球場のような煌々としたものではなく、全体的にうす暗かった。
そんな球場内で、父ひとりがイキイキしていて子供心に不思議に感じたけれど、単純に野球と野球場が好きだったのだろう。
1985~87年頃、昭和の末期、また南海ホークスも末期に差し掛かっていた時の、大阪のいち家庭の光景だ。
ホークスがいて、球場が野球場としての本来の役割を果たしていた時代のなんばは、今よりももう少し雑多で、強烈な空気をまとっていたように思う。
球場の前で、3メートルぐらいの高さの屑鉄を積んだリヤカーを引く労働者、すぐそこを自転車で通り過ぎるプロ野球選手、アクの強い安売りスーパー…
今では経験できない、そんな球場周辺の思い出を記録しておきたくなった。大阪球場やホークス自体に詳しく書かれたサイトは他に多くあるのでそちらを参照いただきながら、当ブログでは、ネット検索ではヒットしないような雑多な思い出話にお付き合いいただきたい。
なんば到着のサインはあたり前田のクラッカー
大阪球場内の企業広告看板といえば、「あぶさん」「がんこ」をまっさきに思い出す方が多数ではないだろうか。しかし私にとっては、製菓会社の赤と白の馬のマークの看板が最も印象深い。
方角の記憶はあいまいだが、バックネット後方あたりに掲げられた馬のマーク。球場内からだけではなく、南海本線でなんば駅にむかう途中、駅手前で車体が減速し始めるとその赤白看板が車窓からもよく見えて、「なんばに着いた!」と実感したものだ。
さらに電車が進み、そのマークが視界から消えると、今度はプラットフォームの真横に「ナンバ文化会館」の看板と、スケートリンクや卓球場のイラスト、そして緑色の「大阪球場」の電光サインが目に入ってきた。
(昔はこの窓一面から球場外壁やネオンが見えた。今はショッピングモールが建っている)
野球場として使用されなくなった後も、ネオンは灯されていたように記憶しているが実際はどうだっただろうか。ともかく南海電車でなんば方面に行く時には、それらの光景と、先発・次発電車時刻表示のパタパタ音、そして「フェーーーー」という不協和音の発車音がセットで今でも鮮やかに思い出される。
自転車通勤のノブちゃん
家族でなんばを歩いていると「あっ!ノブちゃーーん!」と父が誰かに呼びかけることがあった。
その「ノブちゃん」は父の友達ではない。プロ野球選手だ。自宅から自転車で大阪球場に通勤していた、南海ホークスの香川伸行選手だ。「ノブちゃん」よりも「ドカベン」の愛称のほうが浸透していた気がするが、ともかくママチャリにまたがるコロコロした体型のノブちゃんの姿は、80年代なんば周辺の名物だった。
現在の東京でも、おそらく青山近辺に居を構え、格好のよいサイクル(絶対にママチャリではない)で颯爽と神宮球場に通勤するスワローズの助っ人選手の姿を見ることができるが、またそれとは完全にちがった"趣"のある光景だった。父によると、ノブちゃんは西成区の花園あたりから自転車を漕いで通勤していたらしい。その正誤はともかく、野球選手とファンの距離が近すぎた時代の象徴でもあった。(この時代は名鑑に選手の住所まで掲載されていたという点もエグい)
千日前のA&P
大阪球場で観戦する際は、場内で軽食を買うか、当時からずっとある駅前のマクドナルドで食料を調達した人は多かったはずだ。
(赤で囲んだ部分に大阪球場があった)
我が家はそういったファストフードではなく、母が作ってくれたお弁当や、球場から少し離れた千日前のA&P(エーアンドピー)というスーパーで買った安売りのお菓子をよく持ち込んでいた。
(A&Pがあったのはこのへんだっただろうか。今はどこにでもドンキホーテがある時代か)
わりと長く繁盛していたように思うが、そのスーパーは現存しない。2000年代に入る前に別の店舗に入れ替わったと思う。
近くに吉本の劇場があって、芸人さんたちと店内でよく遭遇したのも思い出深い。生前の島木譲二氏に握手してもらったことをよく覚えている。同名の映画館が併設されていたA&P。その映画館の存在を偲ぶ方も少なくないようだ。
昭和の関西商店然としたアクの強いお店だったけれど、親がお菓子をたくさん買ってくれるので大好きな場所だった。
記憶が正しければ、A&Pに向かう途中、なんば南海通の入り口には非公式の怪しいタイガースグッズを売る露店もあったはずだ。それにこの辺りは今も屑鉄をうず高く積んだリヤカーを引く労働者の姿をちらほら見かけるが、30年前はもっと多かった気がする。とりとめのない、雑多な思い出は尽きない。
なんばCITYで食べたあの味
野球を観た日もそうでない日も、なんばでよく立ち寄った飲食店がある。なんばCITY 1Fにあった「やぶ庵」といううどん屋(うどん屋ではなくて食事のできる居酒屋だったかもしれない )では、きれいな三角形に握られて、鮮やかな黄色の沢庵が添えられたおにぎりと、瓶に入ったバャリースをよく頼んだ。
(球場からやぶ庵があった方面の近影。なんばCITYは綺麗になったが放置自転車の雑然さは35年前と変わらない)
おにぎり以外だと、2Fの「ロッチィ」という喫茶店でしょっちゅう食べたチーズケーキも忘れられない。うちはあまり贅沢をしない家庭だったが、そこのケーキはひとつ200円という安さだったからか、頻繁に食べさせてもらった。
(ロッチィがあった場所は今はハンズになっている。左側手前の551のアイスキャンディ売店は昔から変わらない)
画像のとおり、どちらのお店も現存しない。やぶ庵は90年代に入る前、ロッチィは95年前後に別の店舗に入れ替わった。同時期のこのあたりには甘い匂いを漂わせるステラおばさんのクッキーの店や、王様のアイデアというディスプレイが楽しい雑貨屋、またホークスグッズを扱う小さなコーナーもあった。
そんな野球に関係のないこともひっくるめて、雑多で活気のある、南海ホークスがいた80年代のなんばの記憶として、味覚・臭覚・視覚に焼き付いている。
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あの時から約35年。
昔、大阪球場でイキイキと観戦していた父親は、球団が福岡に移って以降はテレビ観戦をメインに、変わらずホークスを(野次を飛ばしながら)応援している。
そして今、野球好きを引き継いだ娘が、あの頃の関西パ・リーグを盛り上げたチームの後身球団を応援するためにイキイキと球場に通う日々を送っている。
2018年にはバファローズ遠征応援のために初めて福岡にも訪れた。私はホークスファンではないけれど、新旧ホーム球場どちらも訪問した野球ファンのひとりになれたのか、と少し誇らしく思った。
薄暗い照明の下、ガラガラの大阪球場で試合をしていたホークスが常勝集団となり、勝てば満員のドーム内で花火が上がる未来を目の当たりにした。
強い時も弱い時も経験し、オーナー企業や球団名が変わって、通っていた球場がなくなる経験をした。それでも60年近くホークスを応援している父のことを考えると、私もまだまだ長く野球観戦の旅を続けようと思う次第である。バファローズもでっかい花火を打ち上げようや…!
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野球ブログなのだから、南海ホークスの試合にフォーカスした内容を記録し、また当時の球場写真などを掲載できたらそれがベストであるが、自分が幼な過ぎたため試合の記憶もなく、また家族が撮影した写真もないためなんばと福岡近影を紹介するエントリになってしまった。
それでも、なにかのきっかけで当ブログを訪れてくださった同時期の大阪・なんばを知るどこかのだれか一人、二人と「懐かしいなあ!」と、ほんの一瞬でも共感しあうことができればうれしい。
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父が語る80年代以前のホークスの思い出話と、大阪球場跡地にあるメモリアルミュージアムなどについてもまとめてみた。
庶民の生活に密接していた昭和の関西パ・リーグの話題は大好物なのだ。
有意義なオフシーズンを。
記録はつづく
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Special Thanks : なんばCITYお客様センターの担当者の方が、当時の関係者方々にも聞き込んでいただき、やぶ庵とロッチィの営業年数を知ることができました。心より御礼申し上げます。ありがとうございました。